2019年10月02日

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち 飲茶

読了しました。

西洋編に続いて、東洋編を読みました。

今まで考えた事がなかったけど、仏教のスゴい人って釈迦だけじゃないんですね。龍樹(りゅうじゅ)とか。知りませんでしたが。この龍樹の教えが元になって、有名な般若心経が編集されたらしいです。へぇ~。龍樹が書いた訳ではないそうです。龍樹の教えがギュッとつまっているそうです。

アートマンの所は難しい。というか理解ができない。ま、東洋哲学は言葉による理解では駄目で、経験・体験によって、初めて理解できたとするらしいんです。だから、本を読むだけでは駄目なんです。難しいですね~。

インド仏教は、ヒンドゥー教の影響を受けて、大衆化されたらしく、現在、インドでは仏教的なものはないに等しいらしい。日本の仏教はこの大衆化された仏教がベースになっているそうです。

インドの哲学は真理と存在がテーマみたいです。何だか難しい。

中国も最初は、文化的な国だったそうで。始皇帝は素晴らしい統治者だったんだって。その考えのベースは韓非子という人の考え方。韓非子がどんな人だったのか、興味を持ちました。

中国の哲学は国家がテーマみたい。まぁあれだけ広い国土があるので、どうやって国を治めるのかが大事なのは何となく解りますね。

日本の仏教のテーマはインドと同じく、真理がテーマのような気がします。人は死んだらどうなるのか、とか本の虫も考えたりしましたからね(笑)。その答にはまだ到達してませんが。だから、本の虫もまだ悟っていません(笑)。

親鸞って破戒僧。破戒僧ってなんか不良の坊さんみたいなイメージでしたが、そうではないみたい。民衆の救済。民衆を大切にするのが親鸞の教えかな、と思います。

ただ後々に一向一揆を起こすなど、今でいうテロリスト集団のようになったこともあったみたいです。

後、現在、ZENとしてアメリカでも受け入れられている曹洞宗の道元にも興味が湧きました。

悟りを得ても、特に何かが変わる訳ではない、らしいです。えぇ?って思いました。だったら、何のために修行をして、悟りを得ようとするのか?謎だらけ(笑)。あ、でも東洋哲学は言葉では理解出来ないらしいので・・・。行動・体験による理解だけ。うーん。東洋哲学は深いです。

西洋哲学に比べて東洋哲学は難しかったです。ただ、古代インド・釈迦からの流れで、今の私たち日本人のものの考え方、見方のベースがつくられてきたのはスゴいことだと思いました。

釈迦・龍樹・韓非子・老子・達磨・慧能(えのう)・道元などに興味を持ちました。機会を見て別の本も読んでみようと思いました。

面白かった!

P12
だが、東洋哲学はそうはいかない。どれだけ時間と労力をかけて学ぼうと、いや、時間と労力をかけて学べば学ぶほど、むしろ「理解」から遠のいていく。
→む~。

P68
ヤージュニャヴァルキヤに言わせれば、すべての「不幸」は「私(アートマン)」への無知から生じる、ただの勘違いにすぎない。
→難しい。

P77
こうして釈迦は出家を決意し、王子の地位も家族もすべてを捨てて、城を飛び出すのであった。
→悟りを得ることにそんな決意が必要なのか?こういう本の虫の考えは間違っているのか?という疑問が・・・。

P84
では、「ホントウに知った」と言えるのはとういうときだろうか。それはもう「ホントウかどうか」を自分で体験して確かめたときでえる。
→だから、言葉では理解できないんですね。

P92
「苦行に意味なんかない。いや、むしろ、苦行という行為自体が悟りを阻害しているのだ」
→リラックスのほうが悟りを得られそうですね。

P95
「自己の誤った同化」を改めるのが目的なのに、むしろ自分から進んで同化を促進してしまったのだ。
そして、やっかいなことに苦行すればするほど、プライドや自我といったものが強化されていく。
→でもやり方がまちがっていれば、結果は出ないですもんね。

P97
結論として、ヤージュニャヴァルキヤの境地に達することと、苦行(極端な状態)の間には、何の因果関係もない。それどころか、むしろ、逆効果。であるから、「中道(極端ではない状態)」こそが、一番悟りを得るのに適切な状態だといえるのである。
→極端からの方が、何となくスゴい、と思えますが・・・。

P99
こうして悟りを得た釈迦は、後日、「仏陀(目覚めた人)」と呼ばれるようになる。
→釈迦は人の名前で、仏陀は悟りを得た状態ってことですね。

P108
「私(アートマン)」という概念を破壊して、同化の鎖を断ち切る。そのために釈迦はすべての破壊者にならなくてはいけなかったのだ。
→ここでも「常識」を疑う事が大切なんですね。

P110
たいていの場合、偉大な教祖が死ぬと宗教組織は大変なことになる。
→宗教組織に限らず、ですね。

P138
だが、そうやって、「何が原因であるか」を見る側の主観で変えられるのだとしたら、つまるところ、「原因はただの「思い込み」の産物にすぎないことになる。
→だから、自分に起こる事は全部自分の責任、と考えた方が良いと思う。その方が気持ちもラクだし、対処のしようもあると思うから。

P159
「無分別智」とは、その名のとおり、分別する(世界から何かを切り分ける=言語化する)ことをしないで物事を直観的に理解することであるが、実は、釈迦が悟った「真理」とはこの「無分別智(知慧)」でしか理解することができないものであった。
→だから、勘も直観も大切なものなのかも、ですね。

P196
彼らはみなそれぞれ、大勢の人々を統率できる高いリーダーシップと人格を兼ね備えた優れた人物であり、またそうであったからこそ人々から尊敬を集め、自然に王の地位についたものたちであった。そして、年老い、力が衰えたら、最も優秀な人材を探して、その人に後事を託していた。
→それこそが素晴らしい組織やリーダーの在り方だと思います。

P240
「・・・王よ、餓死者の多さを気候のせいにしないで、民を救済する政治に責任を持たれたならば、天下の民はこぞってあなたの国にやってくるでしょう。・・・」
→これ墨子の言葉ですが、本当にその通りだと思います。

P259
トップが適切に各人の社会的役割を割り当て、各人がその社会的役割に誇りを持って職務を遂行する。これが荀子(じゅんし)がイメージする国家のあるべき姿であった。
→国家を会社としても通じる話ですね。

P305
身体を動かしたり思考するのは、それぞれの専門家(身体や脳)に任せた方が断然うまくいく。仮にうまくいかないにしても、少なくとも本来持っていう能力を最大限に発揮した行いができるはずだ。
モチはモチ屋に。
→自然に任せる。自然になるように練習する。練習すれば上手くなるから。

P308
つまり、老子が言いたいこと、それはすなわち脱力最強である。
→脱力最強!!

P313
・・・そんなふうに心を抑えつけるような「しがらみ」を荘子はいっさいもっていなかったということである。
→しがらみは少ない方が良いのですね。

P339
ウソも方便。
実は、これこそが仏教そして東洋哲学を理解するためのキーワードである。
→知識よりも体験による理解のためってことかな?

P334
ピーナッツであれ何であれ、ある事柄を否定し脳から締め出そうとする行為は、すべてが逆効果、その事柄を逆に印象づける結果となる。
→気にしないことが大事(たぶん、ですが・・・)。

P347
ホントウの問題は、ただのマメにすぎないものに特別な「価値」を見出していた自分自身の「心の動き(分別)」の方にあったのだ。結局のところ、そういう「価値」を作り出していたのは自分自身であったし、そういう「価値」によって苦しんでいたのも自分自身であった。・・・・ただの自作自演。他者の視点で見たら何とも馬鹿げた話であった。
しかし、その馬鹿げた話こそが、今回の出来事、そして、この世に存在するあらゆる「不幸」の正体であり本質であったのだ。
→過度のこだわりはダメですね。

P349
そもそも、方便自体はまったく重要ではない。重要なのは方便を通して得られる「体験」の方である。すなわち、屋根に登って景色を観ることが重要なのであって、屋根にいたるためのハシゴの種類なんかなんだってよいのだ。
→手段が目的にならないようにしないといけないですね。

P432
「汝、それなり」
「人は本来、仏である」
・・・
「オレが、ガンダムだ!」
→この体験に至るにはどうしたら良いのでしょうか。

P440
そもそも、道(タオ)と一体になろうが、悟りを得ようが、だからといって何かが起こるわけでもないし、起こるはずもない。・・・今までどおり、能力不足で日常のトラブルが解決できず、今まで通り、脳細胞には機械的に動いて化学物質を分泌し、「不安」となづけられる信号を発生させるだろう。
→悟りって何なんだろう?何もかもを超越するための悟りではないの?

P443
『私』が「最強」であることを『私』だけが知っていればいい。天井天下唯我独尊、すなわち史上最強。
そして、『それ』を知った人は、何が起ころうとも起きたままに起きたものを感じ、『それ』を味わいつくす。身体が動くかぎり身体が動き続け、普通の人生を真っ直ぐに生き抜いていく。
→う~ん、わかりにくい(笑)。
 一生懸命にするってこと?でもそれじゃ、『それ』を体験によって理解できるのとは違いますよね・・・。ぬ~。
 ホント、理解から遠のいたような気がする・・・(笑)。



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posted by 本の虫 at 05:37| Comment(0) | 哲学 | 更新情報をチェックする
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